五箇山 〜小さな世界遺産の村〜 The World Heritage -The Historic Village of Gokayama-
English Web Page
このサイトについて
ホームページへ

トップページ > 五箇山ものがたり > 菅沼合掌造り > 解剖図録


解剖図録

おじゃまします…、とそっとつぶやいて一歩を踏み出す

 

【世界遺産・菅沼合掌造り集落】

 ふと見下ろすと、茅葺き屋根が青々とした田園の中にたたずんでいる。戸数8戸の小さな世界遺産、菅沼合掌造り集落です。
 この集落は、庄川が蛇行しながら東へ流れを変える地点の右岸、南北約230メートル、東西約240メートルの舌状に北に突出した河岸段丘面にあります。背後には急傾斜の山地が迫り、その山腹は木の伐採が禁じられ、雪持林として保存されています。
 菅沼合掌造り集落は、1995年、岐阜県白川村の萩町集落、平村の相倉集落とともにユネスコの世界遺産の「文化遺産」に指定されました。

世界遺産の価値基準

1.

人類の創造的才能の傑作を現すものであるか。

2.

ある期間を通じ、またはある世界の文化上の地域で、建築、記念碑的芸術、都市計画あるいは景観デザインの発展において、人類の価値の重要な交流の過程を示すものであるか。

3.

いまも生きているか、あるいはすでに消滅した文化的伝統や文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠となるものであるか。

4.

人類の歴史上の有意義なステージを例証する、ある形態の建造物、建築物の秩序ある集合、または景観の顕著な例であるものであるか。

5.

ある文化を代表するような伝統的集落または土地利用の顕著な例であり、特に元に戻ることができないような変化の衝撃によって、すでに価値を損ねやすい状況に至っているものであるか。

6.

世界的に著名な事件・伝統・思想・信仰・芸術作品・文学作品と密接に関係するものであるか。

 

 これら6つの基準のうち1つ以上を満たすとともに、「真正性(authenticity)」に関する審査にも適合しなければなりません。真正性というのは、文化遺産の芸術的価値や歴史的価値のことを言います。つまり、合掌造り集落が形を変えずに存続しているかどうかという点で、これらの集落は江戸時代以来旧道や水路、宅地や耕作地などの構成に大きな変化がないため、歴史的集落としての真正性が保たれているのです。
 また、相倉集落と菅沼集落においては、国の史跡に指定されているため、その景観を変化させないよう義務づけられています。

 これによって菅沼合掌造り集落では、合掌造りのみならず、小川の流れや田んぼのあぜ道、目に映る景色すべてが昔のまま今でも大切に受け継がれ、守られているのです。ここで暮らす人々は、合掌造りとこの菅沼の風景を後世まで変わることなく守り伝えていくために、さまざまな努力をしています。
 集落の入り口に立ったときに感じる郷愁は、時間がさかのぼったのではなく、「時を止めた」人々の、決して止まることのない努力の歴史なのかもしれません。

 

【五箇山の自然とともに】

 合掌造りは人々の生活とともに発達してきました。屋根の傾斜を60度もの急勾配にすることにより、積雪の多いこの地域の湿った重たい雪にも耐えられ、雪下ろしも楽になります。(茅葺き・ウスバリ構造
塩硝づくりと養蚕、紙すきは合掌造りと深いつながりを持っています。耕作地の狭い土地柄、五箇山では農作物以外の換金産物が必要でした。塩硝づくりは、加賀藩の奨励と援助を受けて、五箇山の中心産業となりました。塩硝の生産は、平野部の農村の米作りに匹敵するほど重要だったのです。

 火薬の原料となる塩硝を作るためには、床下の穴を広く取る必要があるので、地表から高い位置に床板を敷き、いろりを石組みにします。いろりでは塩硝のもととなる土の灰汁(アク)を煮つめて塩硝を取り、これを繰り返して上質の塩硝を作っていきます。そのためには大きないろりや広い作業場、薪の所蔵庫などが必要となり、塩硝の生産量は家の大きさに関係していました。広い作業場は紙すきにも活用されました。

 また、合掌造り家屋は、屋根裏部分を2層3層に区切り、天井に隙間を空けいろりの熱が届くようにして養蚕のための場所として積極的に活用していました。いろりからあがったスス(煤)が柱の縄に染み込んで、強度を増すという効果もありました。また、塩硝のもととなる土を作る際に蚕糞を入れることから、塩硝づくりとのつながりも深かったのです。(切妻造り
 これらのことは、建築学的には、「茅葺き・ウスバリ構造で切妻造り」という全国でもここにしかない形態を持っています。

 

観光情報

五箇山民俗館では菅沼集落の暮らしを、塩硝館では、塩硝の詳しい作り方を学ぶことができます。

 

まめちしき 真宗信仰と五箇山

「後生の一大事、命のある限り油断してはならぬ」

 五箇山地方は真宗信仰の篤い地域ですが、浄土真宗本願寺8代、蓮如上人の時代に赤尾の道宗によって広められました。村ごとに念仏道場があり、農民のお坊さんが経を読み仏事をとりおこない、門信徒は称名念仏を唱えながら仏法を聴聞していました。全戸が真宗門徒なので、嫁入り寺檀関係もなく、念仏の教えを中心に共同体としての結束を強め、厳しい自然条件の中で助け合いながら暮らしていました。そして、現在もなお「結(ユイ)」「合力(コーリャク)」と呼ばれる相互扶助の慣習が残っています。

 赤尾の道宗は、幼い頃に両親を亡くし、父母に似た五百羅漢を探す筑紫への旅の途中、夢の中に気高い僧侶が現れ、蓮如上人のもとへ行くとよいとのお告げを受けました。京都の本願寺を訪ねた道宗は、蓮如上人の姿、ありがたい法話に感激し、涙を流しながら三日三晩蓮如上人の側を離れませんでした。道宗という名は蓮如上人によってつけられたものです。その後、五箇山に帰ってからも、何度も京都へ足を運び、蓮如上人の教えを賜りました。

 道宗は常に自らを戒め、阿弥陀如来の48の誓願になぞらえて、48本の割り木を並べてその上に眠り、目が覚めるたびに仏様に合掌し、念仏が唱えられることに感謝したのでした。道宗の日々の戒律は「赤尾道宗心得二十一箇条」として知られています。

観光情報

行徳寺には、棟方志功が描いた『妙好人 赤尾の道宗臥伏の図』があり、隣接する赤尾道宗道徳館に展示されています。